第9章・土屋華章の珍客

《この家の主人は土屋華章という人品のいい老人だが、二十五歳のとき金剛砂を使ってモ

ーターで水晶に加工することを発明した。今までに弟子を百人ばかり育てている。(中略)三人

の職人がシナの仏像写真を前に置き、大体その感じを出すように、信濃川産の翡翠で仏像を

刻んでいた。外国人の注文だという。華章老が『アメリカ人は、なんでも大きなものを好きます

が、フランスの貿易商は趣味の良いものを好きます。』といった。・・・・・》

これは昭和29年発行の週間朝日に、作家・井伏鱒二が《甲府・オドレの木の伝説》と題して

随筆を載せ、土屋華章について触れた一文である。

長い間商売をやらせていただいていると、時に思いがけない人物が工房を訪ねてやってくる

ことがある。元号が大正から昭和へと移り変わり、ことじと孝の《最愛の息子・敬の早世》《愛

娘・いよ子の結婚》と土屋華章が悲喜こもごもだった丁度その頃、一人の若き科学研究者が

土屋の工房の門をくぐった。話を聞けば『水晶研磨の加工技術を学ばせて欲しい』という。男

の名は古賀逸策。東京工業大学の助教授である。

『東京の大学のお偉い先生が、なんで水晶の研磨なんかに興味を持たれるズラか・・・・』

『ワシらは毎日オマンマを食うために、親方に叱られながらも一生懸命に働いているだに、

エリート先生の道楽に付き合うなんて親方の気がしれねぇ・・・・・』

弟子職人達の冷たい視線の中で、古賀は孝から水晶の特性に関する《い・ろ・は》から始まっ

て、研磨カットの技法・技術などを懸命に学ぼうとした。孝は孝で、この未来への希望に満ち

溢れている前途揚々たる若き青年科学者に、今は亡き息子にもあったであろう夢や希望、そ

して将来の姿を重ね合わせたのであろうか・・水晶について自分の持つ有らん限りの知識や

技術を余すことなく古賀に伝授した。弟子達、いや山梨の水晶研磨加工に携わる者達の殆ど

は、自分達が日々携わっている《水晶研磨加工》技術が、後の日本産業に大きく貢献を果た

す最先端技術に繋がっていくことにその頃まだ気つ゛く筈もない・・・・。

フランスのキューリー兄弟の水晶板の実験とほぼ同時期、1881年アメリカのリップマンは、

適当に切った水晶体に電圧を加えると歪が発生することを発見する(ピエゾ振動子)。1922

年、アメリカ人・ケイディーが水晶にある周波数の電圧をかけると共振が発生することに気付

つ゛き、ピエゾ振動子が無線発信器の周波数を安定する装置に応用される研究が始まった。

ちなみに、この頃フランスでも、ランジバンにより同様の水晶圧電気現象の応用研究がなされ

ている。その翌年の1923年には、ピアースが振動が減衰しない真空管を用いた発振回路を発

明。こうして水晶の振動子は、周波数重量が小さく、混信の少ない無線通信装置として利用さ

れるようになるのである。

東京帝国大学で学び、指導教官である鯨井恒太郎教授が所長を勤める東京市電気研究所

の技師として秘密通信の研究に没頭していた古賀逸策は、1926年(昭和元年)無線通信の

基本となる周波数を容易に変換できる(整数倍に変換する)《分周器/Frequency Demultipie

r 》を開発する。

しかし、この頃までに使用されていた無線通信装置の周波数を掌る肝心の水晶振動子は、多

少の衝撃を受けても周波数を乱すことはないが、温度によって周波数が乱れてしまう。安定し

た周波を得るためには、振動子自体を恒温槽の中に組み込む必要があり、その取り扱いは大

変不便であった。

その後、東京工業大学の助教授として研究の席を移した古賀は、《水晶はある角度で加工す

ることにより、温度による波動の変化が少ない》ことに着目。この《ある角度》を得るべく、遠く

山梨にある土屋華章の門を叩いたのである。

孝と古賀は、来る日も来る日も様々な角度から水晶板を切り出し、研磨の試行錯誤を繰り返

した。そう、来る日も来る日も・・・。『原石のここを切ってください。』『こんどはこの線で削ってく

ださい。』という古賀の指示で、孝は黙々と水晶を切り出していく。

『先生とお旦那は、いったい何を作っているズラ・・・・???』ことじにとっても、当時この2人が

工房で何を作っているのか皆目検討もつかなかった、と後に彼女は語っている。

そして1932年(昭和7年)、遂に水晶の切り出し板の決定的な《ある角度》を発見。

これにより古賀は、温度による影響が少ない水晶板を用いた《零温度係数水晶振動子》の発

明に成功するのである。この水晶の切り出し板は、その加工法の特長からR1・R2板、または

《古賀カット》と呼ばれるようになった。

古賀は、すぐに零温度係数水晶振動子を無線通信技術に応用。この水晶振動子は無線装置

の電波の周波数を安定にする役割から、さらに周波数標準器へと利用される。

しかしこの彼の研究は、それだけに留まってはいない。1933年頃、研究発表のために欧米に

旅行をした古賀は、零温度係数水晶振動子を時計に応用するアイディアを思いついた。

水晶時計・・今で言う《クオーツ時計》である。

日本に帰国した彼は、早速この水晶時計の開発に取り組み、1937年(昭和12年)東京天文

台にてその第1号機が試された。だが水晶時計の研究は、その後の第2次世界大戦勃発で先

延ばしになり、本格的な開発は戦後のものとなってしまった。

昭和39年東京オリンピック。それまでオリンッピックにおける計時機器の担い手であったスイ

スのロンジン・オメガ両社の牙城を崩し、日本のセイコー社が公式タイマーとして35台の計時

機器を会場に設置した。その内の一つである《デジタル・ストップ・クロック》は零温度水晶振動

子を応用した水晶時計であり、男子マラソンの優勝者/アベベ・ビキラの優勝タイム2時間12分

11秒2を正確に計りだした。

水晶時計は戦後、世界中の時計メーカーが競い合うようにその商品開発に凌ぎを削っていた

が、コスト面などの問題で各社ともその量産商品化には長い足踏み状態が続いていた。

昭和44年12月25日、セイコーは世界初・超精度の水晶腕時計《セイコークオーツアストロン3

5SQ》の発売に踏み切る。当時のニューヨークタイムズ紙は、この事について《超精度の水晶

腕時計の商品化に日本が完勝》という記事を掲載している。世界中をあっと驚かせる出来事

であった。

《伝統の技法》は、時として驚くべき最先端テクノロジーへと結びつくことがある。この《無線

機器》や《クオーツ時計》の他にも、例えば現在シリコン以降の半導体素材として期待されて

いる《カーボンナノチューブ》を作製する最先端技術=LB膜(機能性分子集合体)法は、伝統

の《墨流し》の技法からヒントを得て生まれていたり、超純水を作り出す《最先端濾過装置》は

《漉き和紙》の流れを汲む機能紙の技術に支えられていたりするのだ。

侮るなかれ!伝統の技!

日本経済の礎は《もの作り》。かの本田宗一郎しかり、松下幸之助しかり・・・。日本の経済

成長の牽引役として代表的に名前を挙げられる彼らだが、その成功の舞台裏においても、そ

れを陰から支えた数多くの技術者・研究者たちの飽くなき探究心、そしてその研究の成果を実

際の形にする《もの作り》に携わる職人達の知恵や熟練の技が存在していたことを、忘れずに

いたいものである。日本の技術力・伝統の技を誇りに思おう!

一秒一秒正確に時を刻むクオーツ時計・・・目の前にあるこの日常品にも、その誕生の基礎

には、若き研究者の熱き探究心と努力、そしてそれを陰ながらお手伝いした頑固一徹な水晶

職人の持つ熟練の知恵と伝統の技が種となって存在していたことを、時に頭の片隅で思い出

して頂けると幸いである。

画像

―加工水晶と原石―《繊細な石の特性を知り尽くした伝統の技が周波数の決して乱れぬ水晶振動子を作り出した=山梨県甲府市の土屋華章製作所》2004年共同通信社編集室・国内通年企画『脈々日本の技』より(全国41紙記事掲載)

画像

古賀逸策

今回のお話は時代があちらこちらへ飛びに飛んでしまってスミマセン。『井伏鱒二の話から、

オイオイいきなり飛んで東京オリンピックの話しかい??』って感じ・・・・(笑)

M&Aだのなんだのとお金がお金を生む時代・・・。でも本来《もの》そしてそれを作り出す《技術

力》あっての経済というものでございましょう・・・。

私のお友達・YUKIちゃんが、ソニー創業者である故・盛田昭夫氏がバブル絶頂期におっしゃっ

たこんな言葉を教えてくれたことがあります。

『どんなに土地だ、株だと言っても、そこは《もの作り》あってこそのこと。それを忘れてマネー

ゲームに興じていては、いつか手痛いしっぺ返しを食らうことになる!』

・・・・・私自身への自戒の意味も込めて!!

さて次回は、-ことじの悲しみ-についてお話していこうと思います。戦争の足音が迫る中、

ことじに更なる深い悲しみが訪れることになりますが・・・・・・・・・続きはまた!!

アオちゃん