第10章・ことじの悲しみ

わが国は、1931年(昭和7年)の満州事変を皮切りに大陸での侵略拡大を本格化させ、その

翌年に関東軍の絶大な援護によって建国された満州国が、《日本の本土及び朝鮮半島(当時

の支配下)の防衛と大陸利権確保のために作られた傀儡政権である》という国際連盟の批判

に対立する形で、1933年(昭和8年)に同連盟を離脱した。いよいよキナ臭さが色濃くなってき

た中、1937年(昭和12年)7月7日の《盧溝橋事件》に端を発し、日中戦争が勃発。盧溝橋事

件とは、北平(現・北京)・永定河東岸の盧溝橋付近で演習中だった日本軍支那駐屯歩兵連

隊に対し、何者かが行った複数発の銃撃発砲事件である。

この日中戦争では、中華民国における利権をめぐり、日本とアメリカ・イギリス・オランダ等が

対立。中華民国領へ侵出を進める日本に対し、米・英・蘭は中華民国と共に石油と鉄鋼の輸

出制限(ABCD包囲網)を発令し、その侵出を停止するように求めた。だが、これを自国に対

する挑戦と反発した日本は、ドイツ・イタリアと共に日独伊三国軍事同盟を締結し、国際的な

発言力を強めようとしたが、かえって対立の溝は深まるばかりであった。

この日中戦争勃発で、土屋家でも当時、陸軍将校の任についていた婿・亀之助(いよ子の

夫)に大陸への出兵命令が下る。

明るい笑い声が聞こえていた家の中にも、少しずつ寒く不穏な隙間風が吹き込み始めた。

・・・そして、亀之助が北京付近で銃弾に打たれるの一報が・・・。幸いにして、腕に銃弾を受け

た彼は命に別状はなく、現地で治療を受けた後、程なくして日本に帰還することが出来た。

・・・・・・家族中がほっと心を撫で下ろしたのも、ほんのつかの間・・・・・・・・・

今度は、いよ子に嫌な咳が襲う。・・・胸の病気・・・《肺結核》と診断された。

今でこそ、ストレプトマイシン等の抗生物質により、《結核》という病気は、治療さえ的確に行

われれば決して怖い病気ではない。しかし当時の《結核》と言えば、これといった治療薬もな

く、国民病といわれるまで侵淫をみた恐ろしい不治の病であった。

この病気は主に、人から人への空気感染によって蔓延していく厄介な病気で、例えば昭和14

年頃の我が国の結核患者数は一年間に10万人と死因の首位を占め、人口10万対の死亡

率は200を越えていた。過去の患者数・死亡者数の統計などから推察すると、悲しいかな、

いよ子が発病したその頃が《結核流行》の最盛期であったようだ。

的確な治療薬もなく、ただ《栄養》と《十分な安静》が必要とされたいよ子の病をなんとか良

い方向へ向わせる為に、ことじと孝は温暖な湘南・大磯の地に彼女の療養のための部屋を借

り受けることにした。

大磯は、江戸時代より東海道の宿場町として栄え、明治20年の東海道本線開通で東京・横

浜方面からのアクセスが格段によくなったことにより、その後は三井守之助・伊藤博文・吉田

茂等、多くの財界人や政界人などの夏の保養地として広く名が知られるようになった海辺の

町である。今でこそ、大磯ロングビーチがあり、海沿いには西湘バイパスが通る賑やかな大磯

海岸であるが、かつては松林の砂浜が続く、静かな海辺であったそうだ。いよ子は子供達と

共にここに移り住み、転地療養に専念する。

温暖な大磯の澄んだ空気は、いよ子の胸の病には大変効果的で、彼女も一時は子供達の

海辺での水浴びに付き添えるまでに回復をみせた。浮き輪に麦わら帽子・・・今でも、土屋家

には彼女と子供達が、大磯の海岸で楽しそうに笑っている写真が沢山残されている。

どこまでも続く松林の防波堤。浜の東の向こうには、薄っすらと墨絵で描いたような江ノ島。

朝、間借りしている漁師宅二階の軒先から浜の方を眺めると、夜明けの漁から帰ってきた漁

師たちが、その日の収穫を船上から忙しそうに荷揚げしている姿が見える。

水揚げは、相模湾一帯で採れるマイワシや蛸。予め漁師が仕掛けておいた蛸壺の中にマン

マとひっかかった蛸が、陸に荷揚げされるや否や、隙を見計らって壷のなかから這い逃げる。

・・・・・・・・『穣!!言うことを聞かないと、押入れに仕舞い込むよ!!』・・・・・・・

いよ子が元気だった頃の甲府・・・母に追いかけられ、《恐怖の押入れの刑》のお仕置きを幾

度となく食らっていた彼女の幼い息子・穣(私の父だが)は、 漁師の目を盗んで蛸壺から脱

走を試みる蛸に、この上ない親近感を覚えていたのだろう・・・

『頑張れタコ!逃げろ!逃げろ!』

母と一緒に眺める、毎朝防波堤近くで繰り広げられるこの《漁師と蛸の鬼ごっこ》を大変楽しみ

にしていたそうだ。・・・・まだ幼い5歳の穣少年にとって、それが最愛の母との最後の想い出と

なった。

昭和15年、土屋家にとって最大の悲しみが訪れた。11月27日、孝の母でことじの商才を

いち早く見抜いたあの《肝っ玉の据わった》姑・リセが他界。

その悲しみに輪をかけるかのように、10日後の12月7日、土屋華章の《華》であったいよ子が3

人の幼子を残し、その若い生涯を閉じる。享年25歳。

大輪の花が、その最も美しい姿のままに命を閉じた出来事であった。

ことじが商売に専念できるように土屋の奥を陰ながら支え続けてきた、懐深き姑・リセ。

兄・敬の早世で気落ちする両親を励ますかのように、『私が土屋の跡取りを!!』と沈みかえった

土屋家に明るい希望の灯火を照らし続けた、ことじ自慢の美しい娘・いよ子。

大切な心の支えであった二人をいっぺんに失ったことじは、深い深い悲しみに打ちひしがれ

た。絶望の淵に立たされることじ・・・・・・。

しかし、ふと気つ゛くと、彼女の袖の袂を掴む3つの幼い小さな手が・・・

・・・『おばあちゃん!』『ことじおばあちゃん!』・・・・・

いよ子の忘れ形見《美子・翠・穣》の三人の子供達であった。泣いてばかりはいられない!

ことじは誓った。 『いよ子の分まで、この子達3人を立派に育て上げてみせる!』

亡き姑・リセに代わって女中達や台所を取り仕切る土屋家の《奥》、店や工房そして商いを

切り盛りする土屋華章の《女将》、娘・いよ子が託していった3人の孫たちの《母親代わり》、

その三役を一手に引き受ける形で、ことじの新たな奮闘が始まるのである・・・・・。

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大磯のかぶと岩

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大磯の海岸は夕顔の群生地として知られています。

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蛸壺

〈ことじの悲しみ〉いかがでしたか?今回はちょっぴり悲しいお話でした。

ひょっとして泣いた??・・・泣くわけないか!(笑)

さて、次のお話は《ことじと戦争―美しきは何処へ―》と題してお話しを進めて行こうと思ってい

ます。いよいよ戦争の時代に入り、土屋華章の商いはどうなっていくのでしょうか・・・・

それは次回のお楽しみ!ではまた!                          アオちゃん