第16章・琴の音色は・・・

母が選びに選んだ揃いの一張羅を着せられ、テレビカメラのモニターに映る自分達の姿がお

かしくて、私達三姉妹の《変なポーズ》は益々エスカレートしていった。

まだ弟が生まれていなかったのだから、確か私が幼稚園に上がる前のことであったと思う。

夕方に放映されるローカルテレビ放送にありがちな《○○さん一家のご紹介》というような番組

で、YBSテレビ(山梨放送)の収録に土屋さん一家が揃って出演したことがある。曾祖母(こと

じ)と祖父(亀之助)、父(穣)と母、2人の姉と私。

『ほら、カメラに映っているよ。ためしにピースサインしてみてごらん。』という父の一言がいけな

かった。『ピースピース!』ならまだマシなほうで、舌を出した《アッカンベー》やら鼻先を人差し

指で上に上げて鳴らす《ブタさんのポーズ》、手を頭の上にSの字にして舌で鼻の下を膨らませ

る《モンキーポーズ》etc.・・・おてんば三姉妹のカメラに向った悪態は収録中続き、折角この日

のためにとコーディネートした娘達の《かわいらしい》晴れ着姿が、彼女達のブタやらサルやら

のポーズで台無しとなった母の顔は終止引きつりっぱなしだった・・・・・・。

『江戸末期から続く土屋華章さんをここまで支えてくるには、色々なご苦労もおありだったと

おもいますが?』さすがはアナウンサー、横で《ガキ》がはしゃごうが、騒ごうが、ハタマタ《ブタ

のポーズ》をとろうが、素晴しい笑顔でことじにマイクを差し向ける。

『なぁに、私は商売っちゅうモンが好きなんです。ましてやウチのお旦那や弟子たちが一生懸

命作ったモンを売るわけですから、気合が入りますでしょう?まぁ苦労も勿論ありましたけん

ど、お旦那が亡くなった後に直ぐ孫がウチに帰ってきて家業を継ぐと言ってくれましたし、あと

は、孫夫婦にもう一人跡取り息子が生まれてくれれば万々歳ですわ。』

・・・オイオイ!《跡取り息子が生まれれば万々歳》って私達三姉妹の存在は何なのさ??

まぁ、商売家にありがちな《跡取り》=《男の子》という思想のもと、ことじは孫・穣夫妻の子供

に男の子が加わることを切望していた。土屋家の跡継ぎを見届けるまでは、安心して三途の

川は渡れない・・というところであろうか。彼女が憂うのも無理はない。土屋家に生まれてくる

ことじの曾孫たちは、女・女、そして3番目までもが女!!

少し余談になるが、ここで《私》こと《アオちゃん》誕生時の名つ゛け悲話が登場する。穣夫妻

に出来た最初の女の子は初めての子供ということもあり、一族総出で練りに練って考えた《こ

れぞ》という名前がつけられた。2番目の女の子は、武田信玄公の菩提寺である恵林寺の法

帖さまにお願いして名前を考えてもらった。そして、『また女けぇー?』と一族をがっかりさせた

三番目の子供(私)の名前は・・・。

三女(私)が生まれた時、穣は商用で香港に滞在していた。《Your girl has been born!》と香

港に向けて電報を打ったまさにその時、亀之助の頭にピンとある名前が思いついた。そして

『生まれた時に父親が香港にいたということで《香》でいいじゃんけぇー?』という彼の一声に

全員がうなずき、ついた名前が《香》・・・・・安直である。

序章にも少しだけ登場し、私のハンドル名にもなっている《アワイのアオちゃん》とは、正確に

発音すれば《ハワイのカオちゃん》。ブタさんの真似やモンキーポーズ、そして当時大流行した

《ピンキーとキラーズ》のピンキーの歌まねも得意だったが、幼い頃の私の十八番といえば、

父がハワイ帰りに買ってきた(その頃土屋華章は、ホノルルのinternational district に出店み

たいなものを持っていた)造花のレイを首にかけての超自己流のフラ・ダンス。

『ハワイのカオちゃんやりまーす!』と家族に自慢のダンスを披露する訳だが、《H》と《K》がフ

ランス人やドイツ人ばりに無声音に変化した(笑)ため、実際に口から出る発音は《アワイのア

オちゃん》。長女は敦子なので《アッちゃん》、次女・久は《チャーちゃん》、そして三女の私は

《アオちゃん》。

さて話をもとに戻して、番組収録のクライマックス《スポンサー紹介》の場面。

『本日楽しいお話をお聞かせ頂いた土屋さんご一家には、スポンサー《山梨県農業協同組合

連合会》よりパールライスがプレゼントされます!』満面の微笑みとともに美人アナウンサーが

ことじに《パールライス》の袋詰めを差し出す。スポンサーにお金を頂戴しているテレビ局にとっ

ては最も大切な場面である。それにしても番組提供スポンサーが《山梨県農業協同組合連合

会》とは何ともローカルな・・・・・。

昭和30年代後半より、全国各地の農協都道府県連では相次いで大型精米工場を設立し、集

中精米販売事業に乗り出し始めていた。《パールライス》という名称は昭和39年に奈良県の農

協連合会が集中精米したお米のブランド名として使用し始めたものであるが、その後各府県

の農業協同連合会が《農協のお米》としてその名称を使用。昭和49年JA全農が設立された

以降はJAの統一ブランドとして《パールライス》という商品名は今日に至っている。

アナウンサーの女性からことじに手渡されたパールライス。集中精米販売事業を始めたばかり

の農協山梨県連にとっては注目の一押し商品である。

『あーれまぁーありがとうございます。でも、ウチでもこの前これを買って食べてみましたけん

ど、このお米はあんまり旨くないですよ。やっぱりお米はお米屋さんで精米したてを届けても

らわなくちゃぁねぇ。』

『・・・・・・・・・・・・・・』

ことじのこの一言で収録スタジオに一瞬の沈黙がおとずれた。ことじ《言っちまった事件》であ

る。カメラに向ってブタだのサルだのの物真似をする煩いガキ達に加え、悪気は無いとは言え

スポンサー商品をアッケラカンとけなす婆ぁーさまの一言。テレビ局にとって土屋さんご一家は

散々なゲストであったに違いない。

時代は昭和40年中頃。日本列島は佐藤栄作内閣による長期政権のもと、《いざなぎ景気》

と言われる消費主導型の大型景気に潤い、GNPも10%以上の高度成長を保つなど、わが国

は世界第2位の経済大国へと上り詰めていた。土屋華章製作所も輸出・国内需要共に好調

で、第2の黄金時代!?(私が勝手にそう呼んでいるだけであるが)を迎えていた頃である。《ハ

ロー》《ウェルカム》《ハーマッチ》等のボキャブラリーを駆使して外国人バイヤーとの交渉をして

いたことじも、その頃には営業の一線を孫・穣に任せ、それでも毎日シャンと背を伸ばし工員

の女性達と一緒になって工場2階の作業所で日々輸出用のカボションルースなどを袋詰めす

る作業を手伝った。銀灰の髪を束ね結い、次から次へと工員の女性達に指示を出す。明治の

女ここにありの大女将である。

昭和46年穣夫妻に待望の男の子が生まれた。ことじ待望の跡取り、名前は夫・孝と同じ呼

び名の《隆》。待ちに待った男児誕生で土屋家は湧きに湧いた。まだその頃土屋家の裏口に

は《ことじ専用》の釜戸が残されていて、お手伝いの《橘田ちゃん》を脇に従えながら、ことじは

ここぞとばかり何合も何合も山のように赤飯を炊いたそうだ。

隆が生まれたのが2月。上三姉妹のお雛様は桃の節句が過ぎると(甲府の桃の節句は旧暦

の4月3日、端午の節句は6月5日に祝う風習がある)さっさと仕舞われ、4月の風に矢車がカラ

カラと音を立てて回り、大空に高々と鯉幟の親子が泳いでいた庭の風景を、私も幼心に覚え

ている。

昭和47年8月11日、待望の曾孫・隆の誕生を見届けたことじは86歳の生涯を閉じた。乳がん

が転移し、痛みを抑えるモルヒネで意識が朦朧となっていた危篤の床でも『亀之助!男の子

だぞ!男の子が生まれたぞ!』と何度もうわごとを口にしていたと言う。

ことじと夫・華章が手塩にかけて一人前に育て上げた弟子職人たちは 座敷に横たわったこと

じの亡骸を前に、『おかみさん!!』『おかみさん!!』と口々に、大の男達が人目もはばから

ず男泣きに泣いていた。あまりにも沢山の【おじさん達】が大声で泣くものだから、幼かった私

達姉妹はちょっぴり怖くなった・・・。

『私がやらんきゃぁー誰がやるでぇー?』と切断される母の足をつかみ抱えた英村の気丈な

少女ことじは、新しい時代の高等教育を受けたキャリアウーマンとなり立派に実家の桑畑を守

り抜いた。そして土屋家に嫁いでから55年。今度は、土屋家の《琴柱》としてその琴の弦を支

えることとなる。夫や弟子たちの作る作品や製品に何よりも誇りを持ち、『ハロー』『ハーマッ

チ』と大きな風呂敷包みを背負い抱えて回った行商、『何せ私は女なもので』という《スットボケ

作戦》を駆使した交渉術、その間好景気もあれば、不況、そして戦争もあった。彼女がその半

生をかけて支えてきた《琴の弦》、それは言うまでもなく嘉永年間から土屋家に脈々と受け継

がれてきた水晶加工の技法、夫・華章(孝)が自ら試行錯誤して新たに生み出した技術、そし

て何より《水晶は人間の心や生活を豊かにするために磨かれる産物》という彼(孝)の《ものつ

くりの美学》であった。

太い弦、細い弦・・・・大正・昭和と激動の時代に揉まれながら、必死にその弦を撓めることなく

支え続けてきたことじ。勿論その弦を弾く奏者(孝・亀之助・穣)は、この琴柱(ことじ)の存在

なくして土屋華章の美しいハーモニーを世に送り出すことができなかったであろう。

今は平成の世の中。かのプラザ合意以降、土屋華章製作所の事業形態も少しずつ変化し、

現在では主に《伝統的工芸品》等の国内需要に向けての商いを主としている。無論現在、こ

の山梨の水晶研磨彫刻技術が《甲州水晶貴石細工》の《国の伝統的工芸》としての地位を確

立し、こうして土屋華章製作所が沢山のお客様からのご支持に支えられて商いを続けていけ

るのも、ことじが土屋の琴の弦を必死に支えてきてくれたお陰の他なにものでもない。

今、琴の弦を支える琴柱の役割は私の母にバトンタッチされ、彼女も一生懸命縁の下の力持

ちとなって土屋華章製作所を支え守り立てている。母の次には、弟のお嫁さんがそのバトンを

うけとるのであろうか・・・・。どうやら《おんなが支える》土屋華章の構図は時代が変化しても

少しも変わっていかないものであるらしい。そして、弦を奏でる琴の奏者は父・穣から弟・隆

へ・・・・・・土屋華章から生まれる琴の音色は、今後どのようになっていくのであろうか乞うご

期待というところであろうか。いずれにしても、ことじが支え守った職人・華章の《ものつくりの

美学》と《水晶貴石研磨彫刻の技術》いう太い弦があるかぎり、そのハーモニーは途切れるこ

となく美しく奏でられるであろう、いや奏でられてほしいと願うばかりである。

8月・・・熱帯夜のムワっとする暑さが朝まで残る石和町・下平井(旧・英村)の菊島家。

明け方、ことじの実家であるこの菊島家の開け放した窓に大きな火の玉が一つ飛び込んだそ

うだ。そして《ことじ臨終》を報せる電話が鳴る・・・・・。嘘のようなお話だが、これは本当にあっ

たことじが他界した時の逸話。明治・大正・昭和の時代を波乱万丈に生き抜いた彼女の魂

は、長い役目を終えて最後には生まれ故郷の懐かしい桑畑へと戻っていった。

・・・・そう、桑の葉裏にそよぐ風となって・・・・

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桑の葉裏