第8章・ことじの自慢

『あぁーいい湯だった♪』

『!?・・・・・・・・・』

手ぬぐい片手の一糸まとわぬ格好で、廊下を涼しげに歩くことじ。住み込みの若い弟子職たち

の夕餉の手は止まり、茶碗と箸を手に持った持ったまま、目線は釘つ゛けとなって廊下を歩く

ことじを追う・・・・。

ことじは開けっぴろげな性格で、夏の暑い時期には弟子がいようが誰がいようが構うことなく

スッポンポンで風呂から上がってくる。一日の仕事と工房の片つ゛けを終えて遅い夕飯を頂

いている若い住込み職人にとって、母屋の廊下を手ぬぐい片手に歩く女将さんの《スッポンポ

ン》にはいつも度肝を抜かされた。聞くところによると、当時のことじは今でいう《NICE BODY》。

彼女にしてみれば、単純に夏の湯上りの快適さから真っ裸で廊下を歩いていたと言うだけで

あろうが、その開けっぴろげさが年頃の若い職人達にとっては目のやり場に困る何とも気の毒

な光景だったに違いない。

《NICE BODY》はさておき、ことじの最大の自慢は何と言っても娘・いよ子の美しさであっ

た。ことじの愛娘・いよ子は、例の《金看板》(2代目宗八の妻・いよ子の曾祖母)のDNAをしっ

かりと受継ぐ美人。性格は大変おおらかで、おきゃん。いよ子が店や工房に現れると、一気に

その場は花が咲き誇るように明るくなったそうだ。若い弟子職人達にとっては、憧れの存在。

娘・いよ子はまさに土屋華章の《華》であった。

そこはことじ譲りであったのか、いよ子は好奇心旺盛の活発家。加えて、言い出したら聞か

ない我がままなお嬢様である。

ある日のこと、どうしても《サイレント》を見に行きたいと言って聞かない。所謂《活動写真》であ

る。年頃の女の子が一人でサイレントを見に行くなどトンでもない話。『行くなら宮川について

行かせろ。』と言う親方の命令で、若い見習い職人である宮川がお嬢様のサイレント鑑賞のお

供と相成る。

宮川(現在の土屋華章製作所の最長老職人)は、朝早くから晩遅くまで黙々と仕事をこなす

超真面目な弟子職で、孝が大変目をかけていた青年であった。

水晶加工研磨は《磨き2年》といって、入工したばかりの見習い弟子は先輩職人が造形したも

のを木ゴマで磨く《磨き作業》をひたすら担当させられる。そうやって作品を磨いていく内に、手

が自然と《形》を覚えていくのだ。

見習い弟子の朝は早い。起床後は先ず工房や店舗の掃除、そして朝食前に磨きの一仕事。

朝食が終わると、その後は昼1時間と午後の30分の休憩を除いてまた磨き・磨き・磨き。夕

食後も、夜の8時ぐらいまではその日に先輩に言つかった磨きの残りを終わらせるべく、工房

で木ゴマを回す。14歳で土屋華章に弟子入りした寺の息子・宮川宏一は、少しでも早く一人

前になるべく毎日毎日一生懸命働いた。

この宮川青年を夢中にさせていたのがサイレント。当時の活動写真の入場料は15銭で、見習

い弟子職人としての給金が月50銭の彼にしてみれば決して安い金額ではかった。それでも少

ない給金をためては、街の活動写真館でチャップリンの《キッド》や銀幕の大スター・アラカンこ

と嵐寛寿郎演じる《鞍馬天狗》などが上演されると、休日に喜びいさんで飛んでいった。

館内が暗くなり、『さぁー皆さんお立会い・・・・』と言う弁士の口上でサイレントの上映が始ま

る。息を呑み、前方のスクリーンに注目する宮川。お供とは言え、彼にとってもこの上なく楽

しみな作品である。・・・・や否や、いよ子が叫ぶ。『ミヤガワァー!前の人の頭でちっとも見え

んじゃんけー。早く私を膝に抱いてくれろしぃー!』

・・・・・宮川の膝の上にのって意気揚々とサイレントに夢中になるいよ子。『年頃のいよ子さん

を膝に抱くワシの切なさと言ったらなかった。』と後年宮川は語っていたが、楽しみにしていた

作品がワガママお嬢様の背中で見えなくなった《切なさ》と、芳しいばかりの年頃の娘それも

憧れのいよ子を膝に抱く《切なさ》で、宮川青年のやり切れない思いは如何ばかりであったの

だろう・・・・。

昭和5年3月、ことじと孝の息子・いよ子の兄である敬が17歳の若さでこの世を去った。

最愛の一人息子の早世で気落ちする両親にいよ子は言った。『私がお婿さんをとって土屋の

跡取りを生みます。』

翌昭和6年、敬の喪が明けるのを待って《華燭の典》が執り行われた。いよ子15歳、数えで17

歳の若い花嫁姿であった。婿として迎えられたのは、韮崎の大店、質屋を営む岩下家の3男・

亀之助。亀之助は魚町・土屋家の隣りに住む鈴木牧師夫妻の甥にあたる当時の若き陸軍将

校であった。

話が随分逸れるが、この亀之助の叔母の嫁ぎ先・鈴木家は、甲府が徳川幕府轄領であった

時代には徳川家の家臣として仕えていたお家柄。しかし、まだ幕府がキリシタンを弾圧してい

たその頃から、《徳川忠臣》としての表の顔とキリスト教徒として幕府にそむく《隠れキリシタ

ン》という裏の顔、その2つの違う顔を持っていた。当時の魚町の鈴木家には、ご先祖さまが

書きしたためた墨筆の聖書の巻物などが沢山残されていたそうだ(残念ながら後の空襲でそ

れら全ては焼失してしまったようだが)。後に私をはじめ、姉や伯母など土屋家の娘達がそろ

ってミッションスクールに通い、幼い頃からキリスト教教育を受けたのも、元をたどればこの隣

人・鈴木牧師夫妻の存在が大きく影響しているようだ。

話を元にもどして・・何はともあれ、このいよ子と亀之助の婚礼の宴は甲府・若松町の芸者

衆総揚げのヤンヤヤンヤの大宴会であったそうだ。無邪気ないよ子は花嫁衣裳の裾をたくし

上げて廊下を走り回り、鏡の前でキャッキャとはしゃぐ・・・。しかし、その15歳の初々しい花嫁

姿は大輪の花がぱっと咲き誇ったように可憐でみずみずしく、眩しい程美しかったと宮川は今

でも目を細めて語る。

『土屋の跡取りを生みます』の言葉通りに、いよ子と亀之助の若夫婦はその後間もなく美子

と翠、そして後に土屋華章の6代目となる穣(そう!私の父である)の二女・一男の子宝に恵

まれた。

穣が誕生したのは昭和11年の2月。この年の冬は日本列島を大寒波が襲い、各地で稀に見

る大雪が観測されたそうだ。

そして同年2月25日夜半から26日未明にかけ、革命的国家社会主義者・北一輝の記した『日

本改造法案大網』の中にある『君側の奸』の思想に共鳴した陸軍皇道派の青年陸軍将校らの

指導のもと、近衛師団近衛歩兵第3連隊・第1師団歩兵第1連隊・第1師団歩兵第3連隊・野戦

重砲第7連隊の1483名の将兵が連隊の銃火器や武器を奪って出動。

午前5時、降り始めた粉雪の中で首相官邸、赤坂表町・高橋是清大蔵大臣私邸、四谷仲町・

齋藤実内大臣私邸等々を一斉に襲撃する。二・二・六事件である。

叛乱軍と称されるこの皇道派将校・将兵達は警視庁・陸軍省・陸軍大臣官邸・参謀本部を占

拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項からなる要望書を提出。これを経由して昭和天皇に

『昭和維新』と『尊皇討奸』を訴えた。彼らの思想は《武力を持って元老重臣を殺害すれば、天

皇親政が実現し、世の中の腐敗が収束する》というものであった。だが、2日後の28日に『叛

乱軍は原隊に帰れ』と言う天皇の奉勅命令が下達され、決起将校達の夢は完全に絶たれた

形でこのクーデターは脆くも未遂に終わることとなる。

事件の引責で岡田内閣は総辞職するが、後継の広田内閣では、軍部大臣現役官制復活や

軍事拡張予算が成立するなど、二・二・六事件を境に日本政府は軍部主導型の政治へと邁

進していくのである。

またまた余談になるが、この二・二・六事件で叛乱軍を制圧するために召集された政府側鎮

圧部隊は、日比谷にある帝国ホテル裏の空き地に陣営をはって事態鎮圧を努めた。部隊へ

の炊き出しを依頼されたホテルのシェフは、直ぐに食べられて身体が温まる料理としてカレー

ライスの炊き出しを思いつく。大雪が降り積もり、身体の芯から冷え込む野営部隊の隊員たち

にとって、その温かいカレーライスの味はこの上ないご馳走となり、彼らを介してその後東京

の洋食屋で発達したカレーライスは以降全国に広がって、庶民のご馳走の一皿となっていっ

たという一説もある。(別説もあるので定かな情報ではないのだが。)

そんな後の戦争への階段を駆け上がっていった暗い時代とは裏腹に、土屋家の屋根の下で

は、いよ子の結婚と孫たちの誕生という明るい話題で久しぶりに笑い声が響きわたり、最愛の

息子の死と言う悲しみで萎みきっていたことじの心にも、ひと時の平穏が呼び戻っていた。

そう、ほんのひと時の・・・・・。

画像

銀幕のスター・嵐寛

ご無沙汰しておりました!ここ暫く殺人的に忙しく、ことじ物語も久しぶりの更新です。

さてさて、今回は私の父の誕生の頃までをざっと書いてみました。カレーライスの逸話は、別

の説では海軍が庶民に広めたとおっしゃる方もいますので定かではありません。暑い毎日、

ちょっとカレーなども食べてみたいわ!とツイツイ余談を載せてしまいました。読み流してくださ

いませね!(笑)それにしても、この嵐寛のポスターはこの時期にはちょっと暑苦しかったか

も??

さて、次回は『土屋華章の珍客』と題してお話を進めていこうと思っています。

日差し照り輝く毎日、私の住む代官山では《代官山ひまわりプロジェクト》で地域の子供達が

大切に育てていた向日葵たちが見事に花を咲かせています。この夏もどうぞ皆様お健やかに

おすごしくださいませ!(ちょっと暑中見舞いのご挨拶)では、また次回に!

アオちゃん