第12章・ことじと戦争―さようなら魚町―

戦局が泥沼化の様相を呈し、米・英・仏などへの販路は勿論のこと、《贅沢は敵である》とい

う風潮から国内においてもその需要は皆無といっていい状態に陥った(事実、国民生活は窮

乏を極め、人々は食べることが精一杯の毎日であった)土屋華章美術製作所の商い。日本軍

が米・英軍と戦っていた南方戦線から遠く、またまだ日ソ中立条約が存在していた(その後19

45年ソ連が一方的に破棄して日本に宣戦布告)ため比較的平静状態が続いていた満州や支

那からの製品需要にかろうじて支えられてはいたが、工房存続は空前の灯火であった。

米・英との対立による輸出販路の寸断と、《奢侈品等製造販売禁止規制》いわゆる《七・七

禁止令》による製造や販売の制限による国内需要の冷え込み、そして戦局の混迷は、山梨の

他の水晶加工業者達にとっても致命的な死活問題となり、多くの工房ではその存続のため

に、生産が急務と化した工業用部品(水晶発振子・レンズ・絶縁体)などの軍需研磨品の製造

へと体制をシフトしていった。

昭和17年になると、《企業整備令》が施行され、戦時体制強化のために全ての産業・労働力

が国家の統制下に入り、民需産業の整理統制が行われる。これにより、一定規模を満たない

中小企業は強制的に整理・統合をしいられた。

明電舎甲府工場は陸軍軍需工場となり、一つの統制組合(地方統制工業組合/後の海軍統

制工業組合)にまとめられた水晶業界の大多数の業者は、その下請け協力工場として操業を

余儀なくされる。

軍需工場の下請け協力工場となるか、それとも廃業か・・・・勿論誰に聞いても、生き残る道

はただ一つ、《軍需下請け工場》となることである。しかし、ことじの夫/土屋華章(孝)は、きっ

ぱりと言い放った。

『水晶は《人間の生活や心を豊かにする》美しい自然の産物。その美しい光をより美しく

輝かせるのがワシらの仕事。人さまの心を荒ませる戦争・軍需のために水晶を研磨する

つもりはない!!』

孝の祖父・宗八が精密な水晶レンズを研磨した時も、若き青年科学者・古賀逸策が孝の切

り出した水晶板を使って《零温度振動子》を発明した時も、水晶は《人間の生活をより豊かにす

る》という明るい希望に支えられて利用された筈である。悲しいかな、今やその彼らの技法や

発明は時を経て、人々が争う戦争のために使われようとしている・・・・・。武士は食ねど高楊

枝・・・天才とまで謳われた頑固一徹の水晶研磨職人の譲れない《美意識》であった。

『アメリカやイギリスと戦って、この小国・日本が勝てる筈がない・・・・・』

戦気高揚の気運高まる周囲の人々とは相反して、長い間アメリカやフランス、イギリス人相手

の商売に携わり、彼らの生活水準の高さを垣間見ていたことじにとっても、日本が突き進んで

いるこの侵略戦争は、どう贔屓目にみても《猫と虎の戦い》にしか思えなかった。

『♪わが大君に召されたる、命栄光ある朝ぼらけ、讃えて送る一億の歓呼は高く天をゆく、

いざ征けつわもの日本男児♪』  『ばんざーい!』  『ばんざーい!』

企業整備の名の基に、商業関係に従事していた従業員は、その健康状態・身体能力いか

んによって、兵隊として召集されるか軍需工場に従事するかに振り分けられ、全員に動員が

かかった。孝の大切な愛弟子達にも次々に招集礼状が届く。皆がおお手を振って、出征兵士

を送り出す壮行式でも、ことじは徴兵される弟子の耳元にむかって、囁くように言い聞かせた。

『いいけぇ?必ず無事で帰って来いし!帰ってきたらまたオマンさまの力で、親方を助けて

やっておくんなさい。』

時代の波に呑みこまれていく若者達の背中を、ことじは涙で見送った。ある者は軍需工場へ、

ある者は醜い戦場へ・・・夫・孝が大切に育て上げた弟子達の若い命を、一人たりともこの馬

鹿げた戦争にとられてなるものか。

 『お旦那!お百姓をはじめましょう!』

江戸時代末期から続いた大切な暖簾を醜い戦争で汚しては、ご先祖さまに申しわけが立た

ない。軍部主導のこの盲目的な帝国主義の時代はやがて、いやきっと終息する。それなら自

給自足を決め込んで、やがて来る《美しいモノが飛ぶように売れる時代》を待とう!たとえ《売

れる時代》がこなくとも、お百姓なら皆が食うには困らない!弟子達が次々といなくなり、研磨

の音もなくなった工房で、ことじは静かに夫・孝に進言した。

やがてやってくる《その時代》を信じて、長く慣れ親しんだ魚町の店舗・工房に硬く鍵を下ろし

早速、ことじと孝は、以前から夏の住まいとして使っていた湯村温泉の別宅に、一家・住み込

み女中たちを引き連れての大移動を敢行する。

湯村は、甲府市街から北西に数キロ離れたところにある、古くは武田信玄の隠し湯であったと

いう言い伝えの残る歴史のある温泉郷で、当時から多くの旅館や温泉浴場が点在する甲府

市民の一寸した保養地として賑わいを見せていた町である。

湯村の土屋別宅は、その賑やかな温泉郷から少し離れた入り口にあり、目の前には湯村

山という小高い山林、脇には湯川と呼ばれる小川の流れる、風光明媚な静かな場所にあっ

た。

ここで、《お百姓生活》を始めるのだ。《お百姓》と言っても、周りの土地を《本当のお百姓さん》

に耕してもらう謂わば《地主稼業》のようなもの。実際に自分達が作っていたのは、庭先のキ

ュウリやナスぐらいなものだったというから、農業が聞いて呆れる・・・。どこをどう回ってくるの

か、当時手に入りにくい肉や魚の類いまでもが、弟子や女中の実家、南方に出兵している婿・

亀之助(日本軍の南シナ半島侵攻で、再び出兵の任についていた)が率いる部隊の家族か

ら、そっと付け届けられるという始末。まあ、食うには困らない、晴耕雨読ののんびりとした生

活。

《To be ,or not to be・・・・・・》シェークスピアの戯曲ではないが、《Not to be》を選んだことじ

と孝に、後悔という文字は全く存在しなかった。いずれにせよ戦況が益々深刻化していく中

で、ことじと孝は冷静に時代の流れを分析し、ことさら《戦気高揚》の波に乗るわけでもなく、か

と言って声を荒げて《戦争反対》を唱える訳でもなく、暖簾を黙って一旦封印するという形で、

ヤンワリとゆれ柳ように《戦争への加担》を拒絶し、自らの《美学》を貫いたのである。

そんな湯村での生活が始まったばかりの頃、なんと一人の男が戦場から帰還する。日本軍

の南シナ侵攻の戦場で指揮をとり、早々と出征していた婿・亀之助である。子供達の父親が

帰ってきた!

亀之助は、南方出征直後、直ぐにわき腹に銃弾を受け、さっさと日本に送還されて来たのであ

る。銃弾は亀之助のぶら下げていた水筒を貫通した後、彼のわき腹に突き刺さった。水筒の

アルミがクッションになり、亀之助は一命の危機を免れたのだ。まだ軍需物資や兵隊の数も

豊富な戦況が混乱する前のことであったのも幸いした。そうでなければ今頃は、フィリピンあた

りの野戦病院で寝かされたままか、回復しても帰還できず、再び戦場の指揮を執らされいたと

ころであろう。先の北京で受けた弾丸といい、今回の南方で受けた傷といい、何とも超ラッキ

ーな強運の持ち主である。

ことじは仏壇に手を合わせた。『いよ子、子供達のためにオマンが亀之助の命を助けてくれた

だね?ご苦労様、有難う!』 (亀之助はその後、東京から甲府にまるごと疎開してきた陸軍大

学校の指導教官としての任につき、そこで終戦の時を迎えことになる。)

昭和20年(1945年)に入ると、戦況は悪化の一途をたどり、3月の東京大空襲、その3日後

の大阪大空襲など、B29によるアメリカ軍の日本各地の都市をねらった爆撃攻撃で、日本全

国の都市という都市は、ほぼ壊滅状態に陥りはじめた。日々空襲警報は鳴り止まず、頭の上

をB29がかすめ飛んでいく。そして、7月6日未明、甲府の市街地めがけて131機のB29戦闘

機から、次々と焼夷弾の雨が落とされた。6日の未明に起った空襲なので、人呼んで『七夕

空襲』。2時間にわたるこの焼夷弾の雨は、甲府の市街地の74%を焼き尽くし、福井の空襲

の96%に次ぐ、浜松と並ぶ、市街地の焼失率第2位に数えられる甚大な被害をもたらした。

当時、甲府に疎開していた作家・太宰治は、自らの作品『薄明』で、〈焼夷弾の雨をくぐり、眼

病を患う幼いわが子を背負いながら、妻と共に朝日国民学校に避難する〉体験を克明に書き

記し、その空襲の凄まじさを証言している。

土屋一家の暮らしていた湯村は、市街地から少しだけ離れていたために、幸いにもその空

襲の難は免れた。防空壕から這い出し、遠く市街地の方向をながめてみると街中を焼き尽くす

大きな火柱が赤々と見える。市街地・・・そう、ついこの前まで、家族が笑い、涙を流し、弟子

達が汗を流して働いていた魚町がある方角である。いつかやってくる《自由にモノを作り、自由

に商売が出来る時代》を待ち望んで、硬く鍵を下ろしていた魚町にある母屋と工房・・・・・。

『魚町が燃えている・・・』『魚町が燃えている・・・』家族は呆然として誰ともなしに呟いた。

ことじが嫁ぎ、子や孫たちが生まれ、人生の喜びや悲しみ、華や苦渋も味わった、そして孫

たちにとっては、亡き母との想い出が詰まった魚町の家。孝にとっては、半生をかけて築き上

げた大切な工房。それらが、たったいま目の前で赤々と燃え盛る火の中にある。

ことじは、孫たちの手を握り、燃え上がる市街地から立ち上る火柱の方向を真っ直ぐに見据え

て言った。

『形あるものはいつかは無くなる。命さえあればいいじゃんけぇー。さあ、大好きだった魚町に

お別れを言おう!』

・・・・・・『想い出を沢山ありがとう!そしてさようなら!さようなら魚町!』・・・・・

画像

湯村温泉郷

今回のお話は、このくらいにしておきます。孝の《美学》恰好いいでしょう?ひ孫としてちょっぴ

り誇りに思います。さて、次回は《ことじと終戦―希望の音色―》をお届けする予定です。

ではまた次回!                                     アオちゃん