第13章・ことじと終戦―希望の音色―

《堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ・・・・・朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国二対シ其ノ共同

宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・・》

昭和20年(1945年)8月15日正午のラジオによる天皇の玉音放送により、日本国民に対し

盧溝橋事件以降の対中戦争とそれに付随して起った東南アジア各地の戦争、太平洋戦争/

大東亜戦争の終結とポツダム宣言の受諾による日本軍の降伏が伝えられた。

ポツダム宣言受諾の1ヶ月後には、アメリカ軍元帥/ダグラス・マッカーサーが来日し、10月2

日、東京に連合軍最高司令部総司令官本部(GHQ)が設置される。10月4日には、GHQによ

る『自由の指令』が発令され、人権の確立(政治的・公民的・宗教的自由に対する制限の除

去)や治安維持法・特別高等警察(特高)の廃止がなされた。またその後も、経済民主化のた

めの4大財閥(三井・三菱・住友・安田)の解体や、地主から強制的に土地を買い上げて小作

人に分配する農地改革なども行われ、これを受けて国民が自由に物事を考え、表現し、民主

的な生活、民主的な経済活動が行える新しい時代の基盤が徐々に整っていくのである。

戦争が終わった。もう、空襲をおそれて、空を見上げる心配もない!そして、ことじと夫・孝に

とってみれば《美しいモノを自由に作れる時代》がようやくやって来たのだ。《美しい水晶の光

をより美しく輝かせる研磨ができる時代》が!農地改革で、土屋家も多くの土地の《事実上の

没収》にあったが、それがどうした!再出発のときが来たのだ。

茨城の軍需工場で防空壕を掘らされていたという弟子の宮川、南方へ出征していた丸山・・・

軍需工場や徴兵に捕られていた愛弟子たちも、はじめは一人、二人・・そして続々と戻ってき

た。

皆が力を合わせて、ことじと孝が《その日》を夢見て大切に仕舞い込んでいた〈研磨機〉や〈彫

刻機械〉、そして水晶や瑪瑙の原石を納屋の奥から担ぎ出す。魚町時代の工房そっくりに、と

まではいかないが、ここ湯村の地で土屋華章輸出美術製作所の再開である。

戦争が終わったとは言え、まだ日本国民がその日の糧を得ることで精一杯の混乱の時期。

モノを作っても《売れる》という保証はどこにもなかった。それでも工房再開以外に、この戦争で

傷ついた孝や若い弟子達の、モノを作ることへの《心の飢え》を満たす方法がなかったのであ

る。たとえお腹をすかせても、作品や製品を作りたい・・・・。水しぶきを上げて石を切り出す摩

擦音、コマを回すモーターの音・・・・それら全てが彼らの《希望の音色》であり、工房に鳴り響

く《自由への賛歌》であった。

山梨の水晶業界の復興の兆しは、戦後すぐに見え始めた。先ずは終戦と同時に各都市へ

の焼け跡に乗り込んできた進駐軍兵士たちの本土への《土産品》需要である。東洋風デザイ

ンの水晶製品、首飾りやイヤリングは進駐軍兵士たちの目を虜にし、彼らはこぞってそれらを

買いあさっていった。一面焼け野原になった甲府の市街地であったが、商品を地下室に保管

したり、疎開させていた業者たちも、続々と焼け残りの家屋などを仮店舗にして商売を再開し

始めた。また戦時中の貴金属や宝石類の強制供出や、戦災による衣類や装身具類の焼失

によって、長い間我慢を強いられ、終戦と同時に開放された国民の身辺装飾本能で、安物の

指輪・ブローチ・イヤリングなどが飛ぶように売れ、国内販路も徐々に復活してくる。昭和21年

には60業者が工場・工房を再開するに至った。(その翌年には80業者、5年後の昭和26年

までには、250業者が復興を果たす。)

再開直後の不安をよそに、土屋華章でも進駐軍の土産物需要に始まって、極度の生活用

品不足によるインフレに苦しみつつも、細々ながら復活してきた国内需要による注文で、何と

か商いを再稼動させることが出来た。

しかし何より外国への製品の輸出再開なくして、土屋華章の商売の本格的な復活、そして山

梨の水晶研磨工業全体の再建はありえない。各業者は、山梨の水晶の世界市場への復帰を

目指し、昭和21年4月に238名の水晶関係商工業者による自主的任意組合『山梨県水晶業

組合』を結成し、孝もその常任評議員として名を連ね、各方面に貿易再開を訴える。

この年には、日本の経済界全体も一気に復興の底力を見せ始める。8月には経済団体連合

委員会が改組される形で経団連が、11月には日本商工会議所がそれぞれ設立されるなど、

日本経済は苦しいながらも、自らの足をもって必死で立ち上がろうとした。12月からは、輸入

重油と石炭を優先的に鉄鋼業に配給し、それによって生産された鉄鋼を更に石炭生産に投入

する《傾斜生産方式》が開始。翌1月には、新設された復興金融公庫による《融資》と《価格差

補給金》が始まる。それらによって日本産業全体は重要産業から徐々に復興していくのであ

る。

昭和22年8月、ついにGHQが制限付きで民間貿易の許可を下し、それと共に戦前取引のあ

った米国商社のバイヤー達も甲府に乗り込んで来た。土屋華章が、そして山梨の水晶業商工

業者全体が待ちに待っていた輸出貿易の再開である。

しかし、この貿易再開はGHQの管理貿易であったため、輸出品目は種別ごとに異なった格付

為替レートが予め貿易庁で内定しており、水晶製品の最初の輸出為替レートは1ドル250円と

決められていた。おまけに米国商社の買い付け申し込み指値は、例えばビーズ千個単位18ド

ル。これでは工場原価を遥かに割ってしまい、折角の貿易再開も立ち行かない。山梨の水晶

商工業者たちは結託して一斉にたちあがり、貿易庁などへの陳情を繰り返し行った結果、1ド

ル350円にまで為替レートは引きあがった。

しかし、戦後の物価高騰の波は沈静せず、折角の350円レートも直ぐに採算割れの状態に陥

ってしまう。それでも、あきらめず折衝をおこなった各業者たちの尽力により、水晶製品の輸出

為替レートは、昭和24年には400円にまで円安が進んだ。

土屋華章の輸出稼業も、この管理貿易下の輸出為替レートの変動には散々振り回される結

果となる。

1945年のヤルタ会談(米/ルーズベルト・英/チャーチル・露/スターリンによる第2次大戦後

の処理について協定)、その後のポツダム会談は、米ソの対立構造の溝を作り出す結果とな

り、中国で頻発した第2次大戦後の内戦により共産党の勢力が優勢となったことを受けて、ア

メリカは昭和24年、進駐軍(GHQ)の日本に於ける占領政策を大きく転換し始めた。

アメリカ合衆国を盟主とする民主主義国陣営と、ソビエト連邦共和国を盟主とする社会主義国

陣営の東西冷戦情勢の深刻化で、米国は日本の早急な自立とインフレ収束が急務であると

判断したのだ。

2月、特命特使として米国より派遣されたデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジは、日本政府に対

して強烈なデフレ政策《ドッジ・ライン》を勧告する。これにより、補助金カットによる政府の超緊

縮予算がなされ、復興金融公庫による融資と価格差補助金は廃止、輸出振興を目的としに輸

出に有利な単一の固定為替レート(1ドル360円)の設置がおこなわれた。

ドッジ・ライン勧告で、日本のインフレは完全に収束したが、政府の緊縮財政に付随した徴税

強化と復興金融債廃止による資金不足から、多くの企業が倒産し、町には失業者が溢れた。

(世間では、ドッジ・デフレ/安定恐慌と呼ばれた。)

安定恐慌の経済不況による内需不振と、ようやく400円~525円にまで円安が進んだ水晶の

輸出為替が360円に単一化されたレートの設定に、土屋華章も当初かなりの打撃を被った。

だが結果的にこのドッジ・ラインは、土屋華章輸出美術製作所、また山梨の水晶商工業者達

にとって、まさに恵みのフォローウインドとなるのである。

猫の目のようにクルクルと変動する為替相場に対する不安から注文を躊躇していた海外の貿

易商たちからも、関を切るように安定した注文が入って来るようになったのだ。東洋風の美しい

彫刻品に加えて、日本の安価な労働力と固定為替レートを利用しての水晶ビーズや半貴石

のカボション類のロット生産の注文!

そして、すぐに翌昭和25年6月の朝鮮戦争勃発《朝鮮特需》と昭和26年の《サンフランシスコ

平和条約の締結》による内需景気の復活がやって来た。

朝鮮戦争は、日本経済に2つの大きな恩恵をもたらした。1つは、俗に《糸ヘン景気》《金ヘン

景気》と言う言葉に象徴されるように、在朝鮮・在日本アメリカ軍による軍需用の衣類・毛布・

土嚢用麻袋・各種鋼管鋼材の日本からの調達で、繊維・鉄鋼産業の景気が飛躍的に回復し

たこと。これにより日本の景気は機械工業分野を中心に大きく上昇し始めた。

2つ目は、この戦争により共産国の脅威を確認した米国が、日本の早期独立および日米安全

保障条約を急いだ結果、サンフランシスコ平和条約が締結。日本の戦後処理が早期に決着し

たことである。平和条約締結のニースで株価は暴騰。1951年(昭和26年)末の株価は166,06

円、その僅か1年後の1952年の株価は362,64円。たった1年の間に2,18倍にも値上がったの

だ。

いずれにしても、この朝鮮特需とサンフランシスコ平和条約締結は、沼地に足組みをたてて

いたような日本経済の基盤をすっかりと磐石なものとし、その後に続く神武景気・岩戸景気・

オリンピック景気・いざなぎ景気・列島改造景気・・など相次ぐ経済発展の足がかりをつくった

大きな意味のある出来事であった。

水晶商工業界も、この日本の景気復活の波に乗り遅れることなく、売れ行きも内外需ともに

活況を呈し、昭和26年には水晶ビーズ・首飾り・彫刻品などの生産額が総額1億4千万円とい

う戦後最高の金額をたたき出した。

土屋華章にとっても同様で、国内需要による注文はもとより、戦前から取引のあった海外の貿

易商たちからの注文が引きも切らずに舞い込み、工房もかつての、いやそれ以上の活気に満

ち溢れていた。青い目のバイヤー達も、直接湯村まで足を運んでくる。そして・・・そう!あのこ

とじお得意の4大英単語『ハロー』『ハーマッチ』『オーケー』『サンキューベリマッチ』も堂々と復

活を果たす。(その頃には『ウェルカム』という英単語も彼女のボキャブラリーに加わったらし

い。)彼女は、目を輝かせながら海外バイヤーとの交渉に励んだ。

ことじと孝が願った《美しいモノを自由につくり、自由に売る時代》《美しいものが飛ぶように売

れる時代》がようやくやって来たのだ!

石を切り出す水しぶき、コマを回すモーターの回転音・・・・終戦直後の《希望の音色》が、いま

しっかりとした確信のある《自信の音色》となり工房中に響き渡る。夫・孝や弟子達が石と共

に奏でる音のハーモニーに、ことじは静かに耳を傾け、しばし酔いしれた・・・・。

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富士山の夜明け

《ことじと終戦―希望の音色―》のお話はここまでです。日本経済は、他の国の人々が巻き込

まれている戦争によって近代化を成し遂げ(第1次世界大戦)、自ら旗を振りかざしていったあ

のひどい侵略戦争で自滅しました。そして、また海の向こうで起った悲しい戦いを踏み台にし

て復活を遂げたのです。

戦争を知らない世代の私達は、過去の歴史をしっかりと受け止め、私達が自由に伸び伸びと

享受している豊かな社会は、多くの人々の悲しみや苦しみ、涙や血が沢山流された上で、今

に存在しているのだと言うことを心に留めておかなければなりませんね。

さて、次回は《ことじと戦後》というお話をしていきたいと思います。お楽しみに!

アオちゃん