番外編・土屋華章のご先祖様たち-その①土屋惣蔵昌恒-

『申し上げまする!我ら赤穂藩・浅野家遺臣47士、家老・大石内蔵助良雄を頭に本日、主

君浅野内匠頭の無念を晴らすため、吉良屋敷に討ち入りましてございまする。火の元万事念

入りに仕り致してお手数はかけ申さず、必ず必ず加勢にご無用なしと貴殿主君にお伝えくださ

りませ!』

ご存知《忠臣蔵》・・・元禄14年、江戸城白書院・松の廊下で浅野内匠頭長短が高家肝煎・吉

良義央に斬りつけた殿中刃傷沙汰に端を発した浅野家遺臣・大石内蔵助良雄以下赤穂浪士

47士の仇討ち事件-元禄赤穂事件ーを題材にした物語。

12月が来ると毎年必ずといって良いほど、何処かのTV局などで番組がくまれるこの忠臣蔵の

時代劇であるが、大抵の人達が喜ぶ物語のクライマックス-例えば《吉良上野介が発見され

ピィーという笛の音が吉良邸に鳴り響く場面》だとか、《討ち入りを終えた赤穂浪士達が雪を

踏みしめて主君・内匠頭の墓がある泉岳寺へと進み行く場面》などには、土屋家の皆々の心

は躍らない・・・・・。

『そろそろ出るぞ!』という父・穣の掛け声で、子供達の目はテレビの画面に集中する。

《申し上げまする!我ら赤穂藩・浅野家遺臣・・・・》始まった!『見たいのはこれなのよ!』と

ばかり土屋家一同はぐっと息を呑む。

本所・吉良邸北隣の幕府旗本・土屋主税屋敷。浪士の一人・吉田忠左衛門が使者となり、隣

家の只ならぬ物音-討入りーの報告を受けた主税は、『心得ましたと大石殿にお伝えくださ

れ。』と使者を帰した後、『塀を乗り越えてくる者は何ひとなりとも討ち止めよ。』と塀際に家臣

を配備。そして・・・出たぁ~!土屋マーク!三つ石畳(表紋)と九耀(裏紋)の家紋に《土屋》と

書かれた高張り提灯を壁際一面に次々と掲げ、薄暗い吉良屋敷で主君の無念を果たす赤穂

浪士達の仇討ちに、無言で明るい灯火を差しかけるのである。

『かっこいいぜ!土屋マーク!』テレビに映る三つ石畳の家紋を確認した土屋家の居間はヤ

ンヤヤンヤの大喝采で盛り上がる。

土屋華章のご先祖さまは、戦国時代に遡れば武田信玄24将の一人《土屋右衛門尉昌次》で

ある。この忠臣蔵に出てくる上総久留里藩主《土屋主税》は、右衛門尉昌次の実弟《土屋惣

蔵昌恒》から5代目にあたるお方。まぁ土屋華章にしてみれば、すっごく昔のご親戚と言うと

ころであろうか・・・・。

ご親戚ついでに、旗本土屋家といえば綱吉から吉宗まで4人の将軍に老中として仕えた土浦

藩主《土屋正直》が有名だが、土屋惣蔵昌恒の子供《忠直》の長男が《主税》のお祖父さん

で、次男が《正直》の父親。主税にとっては、父親の従兄弟が老中・土屋正直というご関係。

あぁーこんがらがって来た!このブログをお読み頂いている方々にとっては、他人様の家系に

ついて一々説明されても、そんなこと知るか!という感じであろう。

土屋華章のご先祖さま・武田24将土屋右衛門尉昌次は武田家滅亡の序章《長篠の合戦》で

織田勢の鉄砲で戦死をとげるが、本題に入る前にその弟・土屋惣蔵昌恒のことについて少し

お話をしてみたい。

長篠の合戦で兄・昌次を失った惣蔵は、落ち伸びる武田勝頼の供をして甲府に帰り、土屋家

の家禄を貰うことになる。しかし信濃の木曾義晶が内応して来たのを切欠に、織田信長は徳

川家康・北条氏政と共に武田領の侵略を加速させ、既に組織的な抵抗が壊滅しタチマチ南信

濃を失った武田勝頼は、甲斐新府城での籠城の腹をくくる。しかし離反者は後を絶たず、やむ

なく新府城から脱出し、後退した先の岩殿山城・小山田信茂までもに勝頼は裏切られるので

ある。

いよいよ行き場を失った勝頼は天目山に向かう。武田家終焉の場とされる山である。迫りくる

織田の軍勢。戦国武将としての最後・・せめて敵刃だけには倒れまい。勝頼は自害を決意

する。そこで登場するのが、この《土屋惣蔵昌恒》である。

天正10年の天目山・武田滅亡合戦。『勝頼さま!ここは惣蔵にお任せくださり、どこまでもど

こまでもお逃げなさいませ!』惣蔵は勝頼の自害の時間を稼ぐため、山中の岩陰に単身拠

り、左手で蔓をつかみ持ち崖から落ちないように体を支えながら、右手に持った刀で押し寄る

織田兵を次々と斬って捨て、西の谷川に蹴り落とした。谷川は三日間鮮血に染まり、後にこの

谷川は《三日血川》と呼ばれるようになった・・・

武田家終焉の逸話として残されている《土屋惣蔵片手斬り》の武勇伝である。その間、勝頼

は田野の地で嫡男・信勝と共に自刃に倒れ、惣蔵もまた主君に殉じて自決する。かっこいい

ぜ!惣蔵おじさん!

この天目山・武田滅亡合戦の最中、惣蔵昌恒の家来は密かにその嫡男である幼子を連れて

逃げ、駿洲興津の清見寺に預ける。その幼子は父親と同じ《惣蔵》と名つ゛けられ、この寺で

育てられることとなるが、《惣蔵》が9歳になった天正17年、徳川家康が鷹狩りの帰りに清見

寺に立ち寄った。まだ幼さの残る惣蔵が家康に茶を運ぶ。幼いながらも、利発で弁えた所作

を見せるこの茶坊主に家康の目が留まった。

『おみゃ-はどこぞの出であるのか?』

家康といえば、武田家家臣の遺児にとって見れば謂わば《おやかた様の仇》《とと様の仇》の

一人。いつか成人し、その敵討を企てるやもしれない危険因子を含んだ武田家重臣の生き残

りとして、家康にその出生を知られれば殺されかねない惣蔵である。しかし、彼は家康に向か

ってハッキリと言った。

『私の生まれは甲斐の国・甲府でございます。父は武田家家臣・土屋惣蔵昌恒・・・・・・・・。』

もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ!と腹をくくる惣蔵。

『おみゃーは武田家臣土屋の遺児であるか!おみゃーのとと様(惣蔵昌恒)、叔父上(右衛門

尉昌次)の主君に対する忠誠忠義、まっこと見事じゃった。(右衛門尉昌次の忠義に関しては

後でお話する)すぐさま荷物をまとめ、わしと一緒に駿府へ上がりゃー。』

家康はそのまま駿府城へ9歳の惣蔵を連れ帰り、息子・秀忠に会わせる。武田家滅亡の際に

次々と離叛していった家臣一族達はその後、信長や家康によって抹殺された者も少なくない。

しかし、家康は主君に対する忠義を貫いた武田家家臣の落ち武者、その遺族に対しては手厚

い恩義を示したのである。《よっ!いいぞ家康!》

その後、惣蔵は茶阿の局に養われ、成人すると平八郎忠直と言う名と三百石を与えられる。

そして、のちに出世して上総久留里・2万一千石の大名となった。

そう、武田家終焉の《片手斬り》・土屋惣蔵昌恒の遺児・土屋平八郎忠直は、《忠臣蔵》吉良

屋敷北隣・旗本土屋主税の曾お祖父さんというお話につながっていくのだ。

土屋華章のご先祖さま・武田24将土屋右衛門尉昌次のお話に入る前に、前置きが相当長く

なってしまった。1話限りの番外編にしようと思っていたのだが・・・・大河ドラマ風に言うのであ

れば、

-今宵はここまでにしとうございます。-

続きは次回に!                                      アオちゃん

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土屋家表紋・三つ石畳家紋

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土屋家裏紋・九曜

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土屋惣蔵昌恒片手斬り跡(甲州市・大和)

《朧なる 月もほのかに雲かすみ 晴えて行衛(ゆくゑ)の西の山の端》

-武田勝頼 辞世句-

《俤(おもかげ)の みをしはなれぬ月なれば 出るも入るも同じ山の端》

-土屋惣蔵昌恒 辞世句ー