番外編・土屋華章のご先祖様たち-その②土屋右衛門尉昌次ー

-人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵なり-

風林火山の軍旗を掲げた武田騎馬軍団は戦国最強と評され、それを率いた武田信玄は《甲

州の虎》という呼び名で恐れられた甲斐の勇将として知られている。信玄は本国甲斐には生

涯一度も城らしい城を築かなかった。彼のつつじヶ崎の居館は城というには程遠い。

信玄が心血を注いだのは、《築城》ではなく《民政》である。どんなに堅固な城を築いても人の

心が離れてしまったら世を治めることは出来ない。情けは人をつなぎとめ、仇を増やせば国を

滅ぼす。そして民の為の統治を行えば、彼らは結束し武田のための深い堀にもなり、高い石

垣にも、そして大きな城ともなりうる。民政が軍事力の基礎となることを熟知していたのだ。

周囲を山に囲まれた甲斐は、平野が少なく年貢収入が期待出来なかったため、彼は新田開

発を積極的に行い、川が氾濫して農地に向かない土地でも信玄堤と呼ばれる堤防を築き、川

の流れを変えて農耕が出来る土地を作りあげた。

また豊富な埋蔵量の甲斐金山を利用。日本で初めての金貨である甲州金を製造し、それは

治水や軍事費に充当されたばかりではなく、織田や上杉などに敵対する勢力の支援-外交

費としても大いに威力を発した。

その武田信玄の〈石垣・堀・城〉の要となったブレーン達=武田二十四将の一人・土屋右衛門

尉昌次が、土屋華章のご先祖さまにあたる人である。

土屋家の源流は足利泰氏の次男《一色公深》から始まる。ちなみに泰氏の長男・頼氏は足利

尊氏の曽祖父である・・ってそんな昔のことにまで遡ってどうする!っという感じだが(笑)。

さて、もう暫くどうでもいい家系図にお付き合いいただいて・・・《一色公深》の曾孫《一色詮範》

の次男《範貞》から数えて4代目《一色籐次》が甲斐に下り、武田氏の支流である《金丸氏》の

家名をついで《金丸籐次》となった・・・・。さぁ、ようやく戦国時代!《籐次》の孫である筑前守

《金丸虎義》の息子たちが、土屋華章のご先祖さまである《土屋右衛門尉昌次》とその弟で

前回のブログに登場してきた〈片手斬り〉の《土屋惣蔵昌恒》である。

永禄4年、金丸平八郎昌次(後の土屋右衛門尉昌次)は、武田氏と上杉氏の戦い《川中島の

合戦》の第4回目で、真田昌幸(真田幸村の父)と共に初陣を飾った。平八郎昌次17歳。

この初陣、昌次は御大将・信玄の護衛の役に配備された。

第4回目の川中島の合戦。このとき武田勢は苦戦を強いられ、上杉軍の猛攻に信玄本陣も危

機にさらされる。御大将に崇拝にも近い多大なる尊敬の念を持って陣に参加した平八郎昌次

は、本陣を攻められ信玄の護衛を離れる他の者たちの中、『もしもの時には、この昌次がおや

かた様の身代わりになりましょうぞ!』と信玄の背後にぴたりとついて微動だにせず、御大将

の護衛をなし遂げたという。

その《忠義の心》が信玄に気に入られ、戦功として昌次は武田家ゆかりの名族《土屋氏》の名

跡を授かる。右衛門尉昌次と名乗り始めたのはもう少し先の永禄13年のことであるが、彼が

侍大将に抜擢されたのは初陣から5年後の22歳の時。黒地に白鳥居の旗印と騎馬百騎が

与えられたそうだ。

その後も昌次は、若き自分に目をかけてくれた信玄に対して存分に働きを示し、元亀3年12

月の三方ヶ原の合戦の際には、徳川家康の剛臣・鳥居左衛門信元との激しい一騎打ちの末

元信の首を討ち取り、その武名は一段と上がった。この三方ヶ原の合戦で、徳川・織田連合

軍は武田軍との兵力の差、並びに信玄の巧妙な戦術を前に大敗を喫し、多くの将兵を失って

壊滅的な打撃を被る。家康はこの時、恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話も残されてい

る。

いよいよ勢いついた武田勢は、翌年1月(元亀4年)三河に侵攻し、徳川方の三河における属

城である野田城攻めを開始する。この野田城は《藪の中に小城あり》といわれ、城を守る菅沼

軍勢は僅か500程に過ぎなかった。3万を越す武田軍がかかったら、あっという間に落城する

はずである。ところが、この時ばかり信玄はこの城を力攻めにはしなかった。わざわざ甲斐の

金山掘りを呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込もうとしたのだ。

当時の武田軍は織田軍のように兵農分離が行われていなかった。兵隊の大半が百姓である

武田軍は、田植え・稲刈りの時期には甲州に帰還しなければならない。-疾きこと風の如し・

侵掠すること火の如し-《風林火山》の旗印には、こんなお家事情も含まれてていたのだ。

まぁー攻める時にはドンドン攻めちゃって、あとは富国のために農作業に励みましょう!という

ところであったか、なかったか・・・・。

・・・・話は元にもどして、そのあっという間に落とせる筈の野田城攻めは約一ヶ月の月日を要

し、ようやく城は落城した。なぜか・・・・?それは、当の御大将・武田信玄の病にあったよう

だ。野田城が陥落したことにより徳川軍の三河防衛網が崩壊し、いよいよ三河城も襲い掛か

る武田軍勢の危機にさらされることになる。ところがである。武田軍は野田城を落とした直後、

静かに静かに甲斐へと引き返していったのだ。これは、信玄の病状がかなり深刻になってき

たからだと言われている。元亀4年4月12日、武田信玄は永眠した。

先にも書いたように、土屋右衛門尉昌次は武田信玄という武将に対して、崇拝にも近い多大

なる尊敬の念を抱いていた。そして、信玄自身もその昌次が示す誠真忠義に深い信頼をお

き、息子・勝頼と年齢の近い彼をあえて勝頼付とはせず、若きブレーンとして昌次を自分の

傍におかせたという。信玄の死は3年の間伏せられた。彼の遺言により、信玄の亡骸が隠さ

れた場所は右衛門尉昌次の屋敷であったといわれており、そのことからも信玄と昌次の主従

信頼関係の深さがうかがい知れる。信玄の息子・勝頼は、この昌次の屋敷で信玄を荼毘にふ

し、そこに仮の墓を立た。そして3年後にその遺骸を掘り起こして、信玄の菩提寺・恵林寺に

正式な墓を移したそうだ。現在も甲府市岩窪町に残る《土屋右衛門尉昌次邸宅跡》は、《信玄

火葬塚》と呼ばれ近隣の人たちに親しまれている。

崇拝にも近い尊敬の念を抱いていた《おやかた様》の死に衝撃を受けた若き昌次は信玄老臣

たちに自らの殉死を願い出た。しかし、武田四名臣の一人で軍団の作戦・用兵の妙と謳われ

ていた高坂弾正忠昌信や知将・馬場美濃守信房らに『お前はまだ若い。今死ぬことは簡単だ

が、その若さと忠誠忠義を勝頼公の為にいかして、亡き信玄公の遺志を守り抜くことも大切

だ。』とその殉死を押し止められた。どうやら昌次は、バリバリの体育会系熱血漢であったらし

い。

天正3年、武田勝頼は1万5000の兵力を投入し三河国内の長篠城奪還に向けて動き出し

た。信玄が亡くなった年(元亀4年8月25日まで元号は元亀、それ以降は天正となる)の天正

元年、家康は瞬く間に武田方支城であった長篠城を手中に収めていたのだ。三方ヶ原で大打

撃を被った家康が信玄の死を察知するや否や長篠城主・奥平信昌に言い寄り徳川方に寝返

らせたのは、勝頼を甘くみていることの表れであり、また信玄の死以降、武田家内でも勝頼閥

とされる若手文治派と信玄閥である武断派老臣たちとの対立構造が浮き上がっていて、《武

田家に勝頼あり》と内外に示すためにも、この城の奪還は勝頼にとって必要不可欠の課題で

あった。

長篠城を守る奥平勢は500余り。1万5000の兵力を率いた武田軍の勢いに勝てる筈もな

い。奥平家臣・鳥居強右衛門は密かに城から抜け出し、岡崎城の家康に援軍を求める。そし

て、織田・徳川の連合軍計3万5000の援軍が長篠城西方の設楽原に到着した。兵力の巻

き返しである。このことを知った武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信長自らが出陣したこ

とを知り、49勝2敗2引分という驚異的な勝率を誇り、信長さえもその直接的な戦いを避けた

と言われている信玄が率いた武田軍団を熟知している武断派・老臣たち-山県昌景、馬場信

春、内藤昌豊らは、勝頼に退陣を進言する。勿論、若手でありながら信玄閥武断派であった

昌次もまた潔い退陣に意義なしであった。しかし、勝頼は設楽原への進軍を譲ろうとはしな

い。信玄以来の重鎮たちは、この夜敗戦を予感し、死を覚悟して大いに酒を酌み交わしたそう

である。

天正3年5月21日、設楽原を舞台に織田・徳川連合軍と武田勝頼軍との決戦が開始された。

《長篠の合戦》、勿論結果はご存知の通り織田・徳川軍の圧勝。戦国一と謳われた武田騎馬

軍団の翼包囲の陣形も、織田軍率いる新しい時代の戦法-鉄砲隊-の威力には太刀打ちで

きなかった。

織田・徳川方は5キロにもわたる三重の馬防柵をつくり武田騎馬隊の機動力を失わせると同

時に、敵陣がぎりぎりまで進撃してくるのを狙い一斉に発砲してくるのである。敵がかかって

きたら一斉に柵内に退き鉄砲を撃ち、敵が退けば進み出るという戦法だ。

信玄の死を機に自らの死に場所を探していた若き侍大将・昌次は、この時堅い決意をもってこ

の戦いに挑んでいた。《お前の忠誠忠義を勝頼公の為に生かし、亡き信玄公の遺志を守れ》

という高坂弾正の言葉が頭の中で何度もリフレインする。『おやかた様の御遺志が、後の武田

に続いていくためなら、この昌次の命喜んで捧げましょうぞ!』と猛烈な勢いで一の柵から鉄

砲をうつ足軽隊を踏み潰し、撃ちかけられる砲弾をもろともせず、自分の騎兵と共に次の柵に

めがけて突進し、織田方・佐久間信盛勢が守る二の柵を打ち破ると、三の柵まで迫っていっ

た。

三の柵を守る滝川一益隊を目の前に昌次は名乗りを上げる。しかし相手方の応答がない。

昌次は単騎で柵に乗り込み、柵を引き倒そうとしたその時、鉄砲隊の砲弾が昌次めがけて

いっせいに集中砲撃された。昌次の壮絶な最後であった。享年31歳。

《  土屋昌次 柵にとりつき大音声 》という設楽原古戦場いろはカルタの看板と共に、今も

設楽原古戦場(愛知県・新城市)の昌次が鉄砲に倒れたその場所は《土屋右衛門尉戦死

跡》として遺され、近くに墓標としての石碑もたてられている。

体育会系熱血漢であった昌次は、《三方ヶ原の合戦》での一騎打ちや《長篠の合戦》の壮絶

な戦死の逸話で、武田四名臣と呼ばれる山県・内藤・馬場・高坂らに並んで《信玄の剛将》と

呼ばれることも多いが、実は反面その冷静な判断力を買われて、武田家の竜朱印奏者(行政

執行の裁量権を持つ者)として抜擢され、甲斐武田の若き行政官といった働きも見せていた。

ちなみに山県昌景も同じ竜朱印奏者であるが、この二人は他の剛将と呼ばれる者達と比較し

て、より武田の軍政の中枢に近かったようである。

体育会系熱血漢《信玄に対する熱き忠誠心》と信玄が心血を注いだ民政に対してクールに対

処する《理知的な判断力》・・・・あの時、信玄が息子と年齢の近い若き昌次を勝頼付の武将

に育てあげていれば、長篠の合戦はもっと違う結果に傾いていたかもしれないなどと言う分析

をなさる方も現代にはおられるようだが・・・・・・。

さて彼の戦死の後、甲府・土屋右衛門尉昌次の妻子は、家禄を実弟・土屋惣蔵昌恒に託した

後、富士川に沿って南下した上野村(旧・山梨県西八代郡三珠町で現在・市川三郷町上野)

の領地へと密かに引き取られ郷士となった。江戸時代、上野村土屋家は名主であったが土屋

華章の初代・宗助は、その上野村土屋家の次男坊《直蔵》として生を受け、後に甲府に上がり

分家して一家を立てた。ちなみに右衛門尉昌次から数えた上野村の土屋ご本家11代目ご当

主は春陽会の洋画家・土屋義郎(山梨県文化功労者・H3年没)氏である。

上野村土屋家のボンボン《直蔵》は、初めは趣味として、芦川の川原に転がる水晶の原石を

独学で研磨していたそうである。

山梨の水晶産出の歴史は400年以上昔に遡るが、本格的な水晶工芸が山梨に興ったのは

江戸時代。甲斐の国御岳で産出した水晶原石は御岳金桜神社・神宮社家の人々によって

玉などに磨かれ、その技法は門外不出の秘伝として御岳の山中で堅く守られていた。

その秘伝の技法を守る神主らの手仕事を、たまたま金桜神社参拝の為に御岳に入ったボン

ボン直蔵が見聞きし、《趣味》が高じて本格的な研磨の道に彼は足を踏み入れたようである。

文政4年、職人名を《宗助》とした直蔵は甲府柳町で【玉根付附緒メ御数珠眼鏡・御誂御望次

第】という今で言うキャッチコピーを高々と掲げて《玉潤堂・土屋》を開業した。

時は江戸後期・・・浮世絵や川柳が流行し、粋で鯔背な江戸っ子町人文化(化政文化)が花開

いた文化文政時代の真っただ中。甲府は徳川家の直轄領として江戸からの往来が頻繁にあり、

城下柳町の土屋玉潤堂で売り出した水晶製の根付や櫛、簪は、めずらしい【甲州土産】として、

徳川御家人集の間で大層評判を呼び、直蔵改め宗助が磨き上げた水晶製品の数々は、

『お武家さまの奥方がお付けになっているあの粋な・・・』と江戸町人のおかみさん達の憧れの

的となったそうだ。土屋華章190余年の歴史の幕開けである。

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土屋右衛門尉昌次

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土屋右衛門尉昌次戦死跡(設楽原古戦場)

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信玄火葬塚(土屋右衛門尉昌次邸宅跡・甲府市岩窪町)

番外編、長くなってしまいましたね。スミマセン。すっかりと土屋華章の醜態をさらしたような

次第でございましたね。お恥ずかしい限りです。

今回こそ本当のホント!ようやくブログの最後!最後までお付き合い頂きました皆様、大変あ

りがとうございました。感謝、感謝!

では、みなさまどうぞお元気で!また、どこかでお会いいたしましょう!いつかきっと・・・

See Yea!!

アオちゃん