第3章・ことじの結婚 ―夫・孝―

明治45年鵜飼橋の熱烈な恋文攻撃が二人の距離を急接近させ、孝とことじは結婚した。

同年7月明治天皇が崩御し、その子供・明宮嘉仁親王が次の天皇として即位。元号が新た

に大正となった節目の年であった。大いにテレがあったのであろう、『なぁに、おコトが27になっ

ても貰い手が無くて可哀想だったから仕方なく嫁にもらったのさぁー』と孝は言っていたそうだ

が、何のなんの、孝のことじへのラブコールは相当なものだったらしい。何と言っても彼女にあ

の華々しいキャリアをあっさりと捨てさせたのだから・・・。

結婚の翌々年には長男・敬、そのまた翌年には長女・いよ子が誕生し、ことじは人より少しだ

け遅く訪れた女性としての幸せを謳歌することとなる。

ことじの婚家土屋家は江戸の末期に孝の曽祖父・宗助が創業して以来、甲府・柳町に古来

より近くの御岳山付近で産出する水晶の製品加工・販売を生業としている老舗であった。

ことじの嫁いだ明治末期には、それまであった柳町から少しだけ離れた魚町という所に店舗

兼工房を移しており、家の中では多くの丁稚や番頭、弟子職人、奥を任されている女中達が

忙しく働いていた。夫・孝は職人名を【華章】と言い、《甲府で水晶製品を作らせたら、この人の

右に出る者はいない》とまで噂される天才職人で、多くの弟子職人を抱えながら、早々と浜松

に隠居してしまった(この経緯は次回ゆっくりとお話しよう)父・松次郎の後継として土屋の家

業を盛り立てていた。この孝、生まれながらに持つ手先の器用さに加え、芸術的センスは天

下一品。加えて何事でもトコトン突きとめる大変研究熱心な努力家でもあった。

ここからは、ことじと孝が結婚する以前のお話に少し戻る。孝の父・松次郎や祖父・宗八がま

だ柳町で活躍していた頃に《板割法》という研磨の技術が開発され、水晶製品の量産化は進

んだが、量産化と言っても《板割法》は手作りのため、そこにはまだまだ限界があった。若い孝

は試行錯誤の上、足で踏んでコマを回す(昔の足踏みミシンを想像してほしい)足踏み式コマ

磨きという動力機械の開発に成功する。これによって水晶製品の多様化、多量化が促進さ

れ、山梨の水晶加工技術が一気に促進に向うこととなったのである。

また孝は水晶に加え、当時北海道などの山中で産出する瑪瑙石の加工にも興味を持つように

なる。その頃の瑪瑙加工と言えば《若狭》が有名で、若狭瑪瑙の加工技術はヨソ者には決し

て教えない門外不出の秘伝のものであった。産出したばかりの生瑪瑙は硬度8でそのままで

は大変加工し難く、また発色も赤などの鮮やかな色あいのものは極めて少ない。『若狭ではど

うやって加工しているのだろうか』と孝は若狭の地に赴いたが、その秘伝の技法は頑なに教

えてはもらえず、『よそ者はとっとと帰れ』と言わんばかりに追い帰されてしまった。

生瑪瑙は加熱すると硬度が1度低くなり加工が大変し易くなる上、赤色が鮮やかに発色する

ことは解っていた。問題はその加熱温度である。孝は一念発起してこの瑪瑙の加熱温度の

解明に乗り出した。温度が高すぎては割れてしまい、低すぎては変化が起こらない。何度も何

度も失敗を繰り返し、そして遂にその瑪瑙加熱の微妙な温度調整が成功するのである。若狭

の排他的な職人衆との苦い経験から、孝は山梨にいる他の水晶加工業者にも惜しげなく、そ

の成果を教え伝えた。それにより山梨の研磨加工業にもそれまでの水晶に加え、新たに瑪瑙

という原材料が加えられるようになった。

『どっカーン・・・・』

魚町に轟音が鳴り響いた。明治33年甲府の町に初めて電灯が灯るとともに、今度は孝が電

動式のモーターで動く研磨彫刻機械の開発に取り組み始めたのである。タガネの棒にコマを

取り付け、それをモーターで動かそうというのだ。機械の試運転初日、モーターに電力を通す

と例の『どっカーン』である。《大砲でも飛んできたズラか・・》と魚町中の人々が家の外に飛び

出したそうだ。音はともかく、タガネの棒をモーターのついた支えとなる機械に直角に取り付け

コマを回してみると、モーターが回る遠心力で棒がクネッと曲がってしまう。ここでまた彼の試

行錯誤が開始する。鍛冶屋に頼んで金属の配分を何度も何度も変えながら、モーターの遠心

力に耐えうるタガネの棒を開発。孝が考えたこの研磨彫刻機械は現在でも多くの水晶研磨彫

刻職人達によって使用されている。ところがこの機械、普通右利きの人だったら石を持つ利き

手の右側に向ってコマがくる筈なのだが、開発者・孝本人が左利きだったため、今でもコマは

左側に向ってついている。動力式研磨彫刻機械開発の成功によって、それまでの眼鏡やかん

ざし、玉や根付、印鑑といった水晶・瑪瑙製品に、観音や仏像・唐美人といったモチーフの美

術彫刻の分野が新たに加わった。現在甲州水晶貴石細工の【伝統工芸士】と呼ばれる職人

達は主にこの美術彫刻の分野で活躍している人たちのことを指す。

先にも述べたが、孝は手先が器用な上に美術的センスの大変優れた男であった。当然

弟子達が作る作品に関しても決して妥協をゆるさない。『親方先生、こんな感じで出来上がり

ました。』と弟子が完成したばかりの製品をもって見せに来る。その製品に少しでも変なところ

を見つけると、『こんなモン作りやがって!』とその場でそれを床に叩きつけ粉々に割ってしま

うのであった。

そして・・・・ことじが嫁いでからも、工房では孝の『こんなモン作りやがって!』が相も変わらず

繰り返されていた。親方先生にお叱りを受け、工房の裏で半べそをかいている若い弟子職。

ことじは『ちょっと来いし』と言って半べその職人を居間に招き入れては、『旦那はああ言ってい

るけんど、それはおまんが早く一人前になることを望んでいなさるのさぁ。旦那はおまんの腕

前を一番にかっているよ。』と慰め、茶菓子と白湯の一杯も勧めてみる。叱った後には抱きしめ

る・・ことじと孝夫婦の絶妙な《飴とムチ作戦》が功を奏して、弟子職人達は真剣に製品作りに

精を出し、その結果職人達の腕は立ち、巷でも土屋華章の製品の評判はうなぎ登りに高まっ

ていった。

さて、《ことじの結婚ー夫・孝》はここまでにしたいと思います。職人気質で決して妥協を許さ

ない孝をこの後どうやってことじは支えていくのでしょうか?次回はことじを取り巻く土屋家の

人々についてお話したいと思います。では、また!!                   アオちゃん

 

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孝が開発した研磨彫刻機械